お山について
淡路ヶ峠?

淡路ヶ峠は桑原地区の東側にあるお山です。

私自身は桑原小学校(3年まで)、桑原中学校の出身なので小学校低学年時代は校歌にでてくる山名、中学校時代は学校の裏山のイメージでした。友人と「登れそうだよね。」という話をすることはあっても、実際に登った事はありませんでした。

2021年の初頭に2ヶ月ほど実家に戻っていた時期、土日の運動不足解消に中学校周辺の散歩をしていたところGoogleマップで展望台の存在に気づき、家に帰った後検索するとルートが整備されて、周辺の山々も周遊できるということを知り歩きはじめました。

沢山のハイカーの人が登っているので、休みの日に登れば幾人かの人に出会います。幼稚園くらいのお子さん連れから、トレイルランニングでバリバリ走っている人までいろんな人に出会えます。

  • 頂上にある東屋の後ろに由緒書きの看板がたっています。
  •  標高二七五mの淡路ヶ峠は、東方に金毘羅街道・四国の霊峰「石鎚山」、南に土佐街道・久万山 南西には、大洲街道・伊予地区、西方はるか瀬戸内海の島々、北方には髙縄連山を展望する位置にあり、また眼科には松山城を中心に、県都松山が展望できるすばらしい景観の山頂である。
  •  四百年程前の天正年間(一五七三~一五八七年)道後湯築城の砦で「淡路城」と呼び、城主は河野道直の家臣林淡路守通起(明治の元勲、伊藤博文は十一代目の子孫)であった。
  •  「淡路ヶ峠」の山麓に展開する桑原地区は、古来豊かな歴史と数々の文化財に恵まれている。
  •  古墳時代の県指定史跡「経石山古墳」。中世伊予の豪族河野氏の重臣の一人 出雲房宗賢が居住し地名を姓として桑原城を築き、その子孫の桑原道興が主家の命により東予の鷺森城に移った後松末氏が統治し今から四百余年前、九ヶ年の歳月をかけて湯山から三町まで約四kmの市之井出水路を建設した井出若狭守の遺跡。松山藩主 松平定行公が隠居所として万治二年(一六五九年)三ヶ年かけて、御殿・庭園・茶室・観音堂を東野から畑寺に及ぶ広大な台地に構築した県指定史跡、東野お茶屋跡」。後世ここを訪れた正岡子規や高浜虚子の句碑など多くの歴史的文化遺産に恵まれ、また明治後期より村丸寿平翁(元桑原村長)など先駆者により山麓一帯に早くから果樹園芸が行われている。
  •  第二次世界大戦後は、県下各地から来住する方も多く、松山市のベッドタウンとなり、現在豊かな歴史文化の栄える文教地区として発展している。
  • 平成十年二月 淡路ヶ峠ハイキングコース整備工事完成に当たりて記す

ウィキペディアにもページがあります。

簡単にいうと淡路守が城(砦)を建てた山(峠)だから淡路ヶ峠ということですね。人命由来です。重信川と同じパターンですね。頂上の展望台からは松山平野が一望できます。お城(室町時代までは道後の湯築城)を守るには絶好の監視場所だったことが判ります。

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